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国内インスリンの歴史 第10回 誰もがうらやむ地位と栄華を誇った藤原道長と糖尿病

日本におけるインスリン製剤や糖尿病治療の歴史について、知られざるエピソードを交えてお届けする全10回の連載シリーズです。第10回は、源氏物語の主人公である光源氏のモデルともいわれ、栄華の裏で糖尿病の合併症に苦しんだ藤原道長についてご紹介します。

栄華を極めた藤原道長と病の影 (966~1027)

勢力争いと親族の相次ぐ死

藤原道長は、日本で最初に糖尿病とともに生きていた人として知られている人物です。平安時代の966年、他氏との対決が終わり藤原氏内部の勢力争いの中で兼家の子として生まれました。兼家は兄 康通の死後より、道長を含む自らの子供達における身分を強引に引き上げていきます。

当時、繰り返し疫病の流行りがあり、道長の兄2人も病死しました。続く甥の伊周との争いでは、姉である一条天皇生母の助力もあって道長が権力をにぎり、以後30年にわたる藤原氏全盛時代を築くことになったのです。

実は、兄 道隆の死因には疫病のほかに糖尿病もあったのだろうと言われています。なぜなら、宮廷貴族社会の歴史を書いた「栄花物語」によると、43歳で亡くなった道隆について「水を飲みきこしめし、いみじう細らせ給い」と記されているからです。加えて、伯父の伊尹も甥の伊周も同様に糖尿病を発症していたのではないかと考えられています。

病気がちだった道長の30代から40代

最高権力者として君臨する一方で、道長は病気がちでもあったことが自身の日記「御堂関白記」や藤原実資の日記「小右記」から分かります。これらによれば、33歳の時に突然の腰痛で苦しんだが翌年には全快し、また35歳で正体不明の大病に侵され、次いで40歳と47歳でも病気をしたとありますが詳しい内容は分かっていません。

絶頂期の道長に忍び寄る糖尿病の影

1016年、待望の摂政の地位を得た51歳の道長に糖尿病の魔の手が迫り始めます。当時、糖尿病は「飲水病」ともいわれ、日記に書かれた頻繁におこる喉の渇きで水を飲む道長の症状は明らかに今日の糖尿病を指すものでした。次いで胸の病にも侵され、2カ月の間に30回もの発作に襲われたとあります。

1018年、道長は重要な役職を全て自分の外孫と娘で固めたことにより栄華の全盛期を迎えました。その祝宴で詠まれた歌が、かの有名な「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」です。

しかし、この頃すでに健康はかなり損なわれていました。自身の日記「御堂関白記」では、日に日に落ちていく視力を嘆いています。ほかにも、下痢や胸の痛みに苦しめられていたようです。その後、背中にできた大きな腫れものを針で刺し血液の混じる膿を出したという記録も、糖尿病による免疫力の低下が誘因であると考えれば納得がいきます。この感染症が原因となって1028年、62歳でその栄華に幕を閉じました。

道長が糖尿病に侵された訳

記録によると、平安時代の貴族の食事はかなり贅沢だったようです。主食は米に副食は魚鳥、野菜、海藻類、果物といったほか、飴や甘葛の煮汁、はちみつなども用いて甘酒も作られていました。さらに、3日間と空けずに催される宴会は、濁酒とともに10数種類の皿が用意されるほどの豪華さだったとあります。この摂取カロリーに加えて、当時の貴族の衣装が非活動的であり運動不足へつながったことも、道長が中年期以降に糖尿病を患うこととなった1つの誘因と言えるでしょう。

加えて、長きにわたる勢力争いと疫病の流行により心因的なストレスも大きかったと思われます。また、兄や伯父、甥も同じく飲水病の症状があったことを見れば、遺伝的素因の可能性も否定できません。

栄華を極めた藤原道長は、華やかな生涯の裏で糖尿病やさまざまな病気により長く苦しめられていました。そこには、現代にも共通する食事や生活習慣の乱れ、ストレスが深く関わっていたのです。


【参考文献】

Diabetes Journal編集員会 編、『日本における糖尿病の歴史』山之内製薬株式会社1994年、p.472-476


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